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夜って、音が減る

夜って、音が減る。

冷蔵庫の低い唸り。エアコンが吐く、乾いた風の気配。遠くの車が、たまに通り過ぎるだけの街の静けさ。

静かになるほど、蒼の中のノイズが前に出てくる。

布団の中はちゃんとあったかいのに、眠りだけが来ない。

まぶたを閉じても、今日の言葉が巻き戻る。誰かの何気ない一言、仕事の場の空気、自分の返せなかった返事。そういう小さな棘が、暗闇でだけ大きくなる。

街灯の薄い光がカーテンの隙間から滲んで、部屋の端をぼんやり輪郭づける。

蒼は息を吐いて、もう一度目を閉じた。眠い。確かに眠いのに、心だけが起きている。

その時、隣で布が擦れる音がした。

小さな寝返り。ベッドがわずかに軋む。

それだけで、蒼の肩がふっとゆるむ。

悔しい、って思った。

安心が、こんなに簡単に来るのが。ずるい。自分が。隣の彼が。

蒼は動かないふりをした。眠れてないの、気づかれたくない。気づかれたら、優しくされる。優しくされると、受け取る自分が出てきてしまう。

それが怖い。

「……起きてる?」

闇の中で、輝の声だけが近い。低くて、起こさないように薄く伸ばした声。

蒼は返事を言葉にしない。代わりに、息を少しだけ乱してみせる。うん、の代わり。

輝はそれを拾うのが、うまい。

「そっか」

それ以上は追い詰めてこない。けど、離れもしない。

その曖昧さが、優しさとして機能してしまうのが、蒼にはいちばん厄介だった。

指先が、蒼の腕に触れた。

確かめるみたいに、ひやっとした肌の上を、ゆっくり撫でる。掴むんじゃなく、置く。触れて、滑らせて、熱を分けていく。

蒼の中で、眠っていた神経がひとつずつ起きていく。

指が動くたびに、身体が思い出す。

さっきまで、頭だけでぐるぐるしていたのに、触れられると、世界が急に身体の側へ戻ってくる。

「今日、しんどそうだった」

その一言が、刺さった。

優しい。優しすぎる。言い当てられるほど、蒼は何も言えなくなる。溢れそうになるから。怖くなるから。

輝は、待たない。

でも、押しつけない。

そのバランスが、蒼を落ち着かせるんじゃなくて、逆に揺らす。逃げ道を奪わずに、戻れる場所だけを作ってくる。それは、断つのが難しい繋ぎ方だった。

輝の手が、蒼の手を探す。

握る、じゃない。指と指が絡む。隙間を埋めるみたいに、でも締め付けないで、ほどける余白を残したまま。

蒼はその絡み方が、いちばん弱いと思った。

逃げられる形なのに、逃げたくなくなる形。

「……こっち向いて」

命令じゃない。お願いの形。

なのに、蒼の身体が先に動く。考えるより先に、肩が回って、顔が輝の方へ向いてしまう。

暗闇で輪郭は見えない。

見えないのに、距離と息だけが鮮明になる。近い。近すぎる。怖い。安心する。悔しい。

「眠れないの?」

蒼は短く、喉の奥で答える。

「……うん」

それだけでいい、みたいに輝は息を吐いて、蒼の額に唇を落とした。

軽いキス。触れて、離れる。

頬。こめかみ。眉の上。

場所を変えながら、触れては離れる。奪うんじゃなく、整えるみたいなキス。

優しさが、じわじわ苦しい。

溶けるのが怖いのに、溶けてほしい矛盾が、蒼の胸をふくらませる。

「放っておけないんだよね」

弱さを見つけてくる言い方。

蒼は反射で言い返す。

「放っておいてよ」

本音でも、嘘でもある。

放っておいてほしい。けど、放っておかれたら、たぶん崩れる。自分がいちばん知ってる。

輝は怒らない。笑いもしない。

代わりに、蒼の唇の端を指でなぞった。泣きそうな気配を扱うみたいに、丁寧に。

「放っておいたら、蒼、ひとりで固くなるじゃん」

痛いほど的確で、胸が詰まる。

蒼は言葉を失って、輝のシャツの裾を小さく掴んだ。爪が布に引っかかる。逃げないで、って言えない代わり。

暗闇の中で、輝の気配が少しだけ近づく。

低い声が、耳に落ちた。

「かわいい」

その一言で、逃げ道が狭くなる。

耳の下に指が触れて、熱が走る。首のうしろがぞわっとして、背中が勝手に反る。

逃げない、じゃない。

逃げられない。

心が先に溶けて、身体が置いていかれる感覚。

蒼は息を吸うのが下手になって、苦しいのに、やめてと言えない。

背中を撫でられる。

輝の匂いが、近い。柔軟剤と、体温と、ほんの少しの汗。蒼の中の焦げたノイズを、じわっと消していく匂い。

「息、浅い」

見抜かれる恥ずかしさで、蒼は拗ねる。

「うるさい」

輝は笑った。からかう笑いじゃなく、受け止める笑い。

そして、確定みたいに言う。

「大丈夫。俺いる」

その言葉に、蒼は預けそうになる。

預けたら楽だって、身体が知ってる。だから必死に堪える。堪えるほど、手が離せなくなる。

輝の指が、蒼の顎を軽く持ち上げる。

闇の中でも、視線が合った気がした。

「……嫌?」

卑怯だと思った。

聞かれたら、嫌じゃないって言うしかない。言ってしまう自分を、輝も分かってる。蒼も分かってる。

蒼は唇を震わせて、喉の奥で小さく返す。

「……嫌じゃない」

それを聞いた瞬間、輝の息が乱れた。

近くで、ほんの少しだけ音が変わる。それだけで蒼の熱が煽られる。自分の言葉が相手を揺らした感触が、怖いのに嬉しい。

キスが変わる。

丁寧さはそのまま、深さが増す。整えるキスのまま、離したくないキスになる。

蒼の手が、輝の背中へ回る。

掴む力が強くなる。指先が布越しに筋肉を感じて、現実に引き戻される。

その拍子に、蒼の前髪がどこかに引っかかって、小さく痛んだ。

その痛みが、妙に安心だった。夢じゃない、って思える。

「力抜いて」

「抜けない」

蒼の声は、情けないほど素直だった。

輝はまた笑う。からかわない。

「そっか」

そして、逃げなくていい強さで抱きしめた。

「抜けるまで、ここにいる」

蒼の身体の中で、ぷつん、と切れそうな線が揺れる。

泣く一歩手前。言葉にならない重さが喉に溜まって、苦しくて、でも吐き出したら壊れそうで。

蒼は、やっと言った。

「……怖い」

受け取るのが怖い。

甘くなるのが怖い。

このまま自分が、優しさの中で溶けていくのが怖い。

輝は、すぐに答えない。

ぎゅっと抱くでもなく、離すでもなく、蒼の怖さの形を崩さないまま、そこに居続ける。

「うん」

それから、低く、真面目な声で。

「好きだよ」

蒼の胸がきゅっと縮む。

輝は続ける。

「怖いままでいい。ゆっくりにする」

言い切って、蒼のこめかみにもう一度キスをした。

蒼はその瞬間、耐えきれなくなって、自分から唇を探した。

暗闇で少しずれる。鼻先が当たって、息が笑いそうになる。

そのずれが、愛しい。うまくできない自分を許されてる感じがする。

呼吸が混ざって、輝が蒼の名前を呼ぶ。

名前が耳に落ちた瞬間、蒼は現実に繋がる。ここにいる。いま、ここで、選んでる。

重いのに、嫌じゃない。

重さの中で、息ができる。

「顔、見せて」

蒼は恥ずかしいのに、見てほしい。

泣きそうな顔を見られるのが嫌なのに、見られないと不安になる。

蒼は渋るみたいに少しだけ身を引いて、でも逃げない。

輝の指が頬に触れて、涙の跡をなぞった。

「泣いてない」

蒼が言うと、輝は優しく相槌を打つ。

「うん。泣いてない」

否定しないで、受け取ってくれる。

それがまた、危ないほど嬉しい。

輝の声が、少しだけ熱を帯びる。

「信じろって言わない。けど今だけ、俺に預けて」

蒼は頷く。

声にすると崩れそうで、頷くだけにする。

そのまま、静かに重なっていく。

大きな音はいらない。

布団の擦れる気配と、互いの呼吸だけで足りる。怖さは消えない。消えないまま、抱えたまま、それでも息ができることを蒼は知る。

身体の熱がほどけて、心が少し遅れて追いついてくる。

蒼はいつの間にか、力の入っていた指をほどいて、輝の背中に手のひらを置いた。置くだけで、もう十分だと思える。

輝の心臓のリズムが、近い。

規則的で、あたたかくて、子守唄みたいで。

やがて、熱が引いていく。

蒼の中が、布みたいに柔らかくなる。硬かったところが、少しだけほどける。

輝が小さく囁く。

「眠れそう」

蒼は、喉の奥で笑ってしまいそうになって、素直に返す。

「……たぶん」

背中を撫でられる。

あやすみたいで、恋人みたいで、どっちでもある手つき。

「おやすみ」

「……おやすみ」

夜の暗さの中で、輝の体温だけが蒼の世界を照らしていた。

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