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触れないで守る夜

触れないで守る夜

タグ: #不眠 #精神科 #半同棲 #幼なじみ #優しさが重い #ラベルのない関係 #同意の積み重ね #夜の救い #静かな恋


蒼を見つけたのは、ほんとに偶然だった。

コンビニの白い光の下、入口の自動ドアが開くたびに冷たい風が漏れて、店内の匂いと一緒に夜が吐き出されてくる。その境目みたいな場所に、蒼が立っていた。
手には小さな袋。ぼんやりとした目。肩が少しだけ内側に縮んでいて、帰る方向すら決められてないみたいな立ち方。

「……蒼?」

呼んだ瞬間、蒼の身体が小さく揺れた。驚いた、というより、意識が今ここに戻ってくるみたいに。
それが嫌に引っかかった。蒼はいつも、呼べばちゃんとこっちを見る。たとえ機嫌が悪くても、意地悪な顔をしてても、目に芯がある。

今日は、その芯が薄い。

俺はネクタイを緩めたまま、紙コップのコーヒーを持ち替えて、軽い声を作った。

「お疲れ。……顔、死んでる」

「死んでない」

返ってくる言葉はいつもどおり。でも、声の奥が空っぽだった。
俺はその空っぽに触れたくなくて、触れたくて、でも触れたら壊れそうで、ほんの少しだけ言葉を選ぶのに時間がかかった。

「いや、死んでるって。なんかあった?」

蒼が視線を落として、手元の袋を握りしめた。紙がくしゃっと鳴る。
その音が妙に鮮明だった。

「……眠れなくてさ。病院行って、薬もらった」

薬。病院。眠れない。
単語が順番に胸に落ちて、最後の一つで息が止まった。
驚いた顔をしたら、蒼はたぶん逃げる。心配しすぎたら、蒼は自分のことを“迷惑”に変換してしまう。そういう癖がある。昔から。強がるくせに、強いふりをするときほど、ぎりぎりだ。

俺は一度、深く呼吸をした。
呼吸を整えるのは蒼のためでもあるけど、たぶん一番は自分のためだった。感情が先に出ると、言葉が乱暴になる。乱暴な優しさは、蒼にとっていちばん危ない。

「そっか。……言ってくれてありがと」

蒼が一瞬だけ、目を泳がせた。
それが、“助けて”に近い表情だってことを、俺は知ってる。

「別に。大したことじゃない」

「大したことだよ。眠れないの、きついもん」

言い切ったあとで、蒼が眉を寄せる。優しすぎるのがしんどいって顔。
俺の優しさが重たいのも、知ってる。だから、軽さも混ぜる。

「一緒に帰ろ。つーか、飯食べた?」

「食べてない」

「じゃ、うち寄って。なんか作る」

「え、迷惑じゃ」

「迷惑なら言う。言わないから、寄って」

ずるい言い方だなって、自分でも思う。
でも、ずるくてもいいから、蒼を一人で夜に戻したくなかった。


部屋に入って、蒼が靴を脱ぐ。いつもなら勝手知ったる、みたいに乱暴に脱ぐのに、今日は丁寧だった。
丁寧なのは余裕があるからじゃない。神経が張ってるときの丁寧さ。触れたら切れる薄い膜みたいな慎重さ。

俺はキッチンに立って、卵雑炊を作った。
鍋がコトコト鳴る音。湯気。白い匂い。そういう温度が、蒼の中の尖った部分を少しでも丸くしてくれればいいと思った。

蒼が食べるのを黙って見守って、白湯を渡して、薬袋がテーブルの端に置かれるのを見た。
紙の袋が、やけに現実的だった。あれは救命具だ。でも同時に、“俺が気づけなかった証拠”でもある。

洗い物をしながら、背中越しに聞いた。

「今日、帰って寝れる?」

ほんとは答えなんて分かってた。
帰っても眠れない。眠れない夜が怖い。だから、今ここにいる。
でも蒼は、言えない。言うと重たい人間になると思ってる。言うと切り捨てられると思ってる。誰もそんなこと言わないのに、蒼の中にはその未来が準備されている。

蒼は黙った。

蛇口を止めて、俺は振り返った。
蒼の顔は笑っていない。泣きそうでもない。ただ、耐えている。

「……蒼。無理してない?」

呼ぶだけで、蒼の喉が小さく動くのが分かった。
蒼は唇を噛んで、絞り出すみたいに言った。

「……寝れる日も、ある」

「そっか」

それ以上は追わなかった。追えば追うほど、蒼は“答え”を作り始める。俺が欲しい答えじゃなくて、蒼が楽になる答え。
だから俺は、提案だけすることにした。

「今日さ、ここで寝ていく? もちろん、嫌ならいい。ソファでも布団でも、用意する」

蒼の肩がほんの少しだけ落ちた。
それが“崩れた”ってことだと、俺はちゃんと分かった。

「……ソファでいい」

「寒いよ。布団出す。俺はソファで寝るから」

蒼はすぐに言い返してきた。

「え、いいよ。私が帰れば」

帰れば、また戦いが始まる。
蒼の部屋の静けさは、蒼を置き去りにする。天井を見上げる夜が戻ってくる。

俺は声を強くしないように、でもはっきり言った。

「帰らなくていい。今日は、休んで」

蒼が、また例の言葉を出す。

「……ほんとに迷惑じゃないの?」

俺は笑って首を振った。

「迷惑なら、こんな顔しない。見て」

わざとらしく笑うんじゃなく、ただふわっと笑った。
蒼は、その笑いに弱い。そういうのも、ずるいって自分で分かってる。


布団を敷く。枕を二つ置く。
蒼が不安にならない距離で、必要なことだけをする。
俺が“親切”を盛りすぎると、蒼は息ができなくなる。だから淡々と。

「ここまでで大丈夫?」

「……うん」

「じゃ、電気消すね。何かあったら起こして。無理しなくていい」

俺は一歩下がった。
下がって、そこから先は蒼の領域だってことを示す。近づきすぎない。勝手に踏み込まない。

蒼が言った。

「輝は、ソファで寝るんでしょ」

その言葉に、俺の中で何かが揺れた。
帰したくないのと同じで、ソファに行きたくなかった。蒼を一人にしたくなかった。今夜の蒼は、一人になった瞬間、静けさに飲まれそうだった。

でも、同じ布団に入るのは線を越える。
越えたら戻れない。越えたら、蒼は俺を怖がるかもしれない。
俺が怖いんじゃない。“頼ってしまう自分”が怖いんだ。

それでも、言わなきゃ始まらない。

「……蒼が嫌じゃなければ、同じ布団でもいい?」

蒼の心臓が鳴る気配がした。
俺は急いで補足した。言葉が遅れると、蒼の中で悪い未来が膨らむ。

「触らない。勝手に触らない。眠れないのって、一人だと余計きついから……ただ、人がいるってだけで安心することもある。そういう意味で」

俺は蒼の返事を待った。
“待つ”ことが一番大事だった。蒼の決定権を奪わない。奪った瞬間、これは救いじゃなくなる。

「……いいよ」

蒼がそう言ったとき、胸が熱くなった。
嬉しい、より先に、安堵が来た。
拒絶されなくてよかった、じゃない。蒼が今夜、少しでも安全を感じられる場所ができたってことに、ほっとした。

「ありがとう。じゃ、入るね」

俺は布団の端に座ってから、ゆっくり入った。無駄に近づかない。
蒼の体温が、少し離れたところからでも伝わってくる。薄い布団越しの熱が、じんわりと。

電気を消す。
暗闇。
蒼の呼吸は浅かった。音にしないようにしているのが分かる。息まで我慢してる。

「……眠れそう?」

「……わかんない」

「そっか」

それ以上言わない。言いたい言葉は山ほどある。大丈夫、とか、怖くない、とか、俺がいる、とか。
でも言葉は時々、刃になる。蒼にとっては“責任”に聞こえることもある。

だから、必要な提案だけ。

「手、つないでもいい?」

蒼が小さく「うん」と言った。
俺は蒼の手を探した。いきなり握らない。触れるところから。指先が当たって、蒼が逃げないのを確認して、ゆっくり絡める。

蒼の手は少し冷たかった。
でも、冷たいだけじゃない。震えの前の硬さがあった。
俺は力を抜いた。握りしめたら、蒼は“捕まった”と感じてしまう。俺の手は檻じゃなくて、手すりでいい。

隣で、蒼の呼吸がほんの少しだけ深くなる。
それを感じた瞬間、俺の胸の奥がほどけた。
蒼が戦いをやめられるなら、それでいい。俺が何者にならなくてもいい。

しばらくして、蒼がまだ眠れていないのを感じた。
身体が起きてるというより、心が寝られてない。
俺はもう一歩だけ近づきたくなった。

「……もうちょい近く、いってもいい?」

蒼の「うん」が、さっきより滑らかだった。
俺は腕を背中の少し上あたりにそっと添えた。抱きしめるんじゃない。囲うだけ。触れるだけ。
蒼の身体が、ほんの少しだけ俺の方へ落ちてきた。

その瞬間、心の底の欲が動くのが分かった。
抱きしめたい。もっと近づきたい。蒼の呼吸の奥まで触れたい。
でも、その欲は今夜の主役じゃない。今夜は“眠れること”が主役だ。俺の欲は脇役ですらない。

俺は自分に言い聞かせるみたいに、蒼に言った。

「蒼、もし嫌になったら、すぐ言って。今のも、やっぱやめたいって思ったら……すぐ離れるから」

蒼は小さく答えた。

「……わかった」

暗闇の中で、蒼の体温が少しずつ安定していく。
呼吸が、俺の呼吸に近づいてくる。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
それが揃っていくと、部屋の音が遠くなる。冷蔵庫の唸りも、エアコンの沈黙も、もう敵じゃない。

蒼がふっと力を抜いた。
その瞬間、俺の肩からも、何かが抜けた。

眠りに落ちていく蒼の気配を感じながら、俺は目を閉じた。
眠ることが、こんなに大事なことだったのかと、初めて思った。
蒼の眠りは、蒼の命綱で、俺の救いでもある。


朝、薄い金色がカーテンの隙間から差し込んだ。

蒼が身じろぎする気配で、俺も目を開けた。
蒼の顔は、昨日の夜よりずっと静かだった。
“静か”が怖くない顔。静けさを敵にしてない顔。

「……おはよ」

自分の声が掠れていて、ちょっと笑いそうになる。
蒼が「おはよう」と返す。その声に、余裕が少しだけ戻っている。

「眠れた?」

蒼は迷ってから、うなずいた。

「……眠れた」

その瞬間、胸の奥がほどけた。
俺は心から言った。

「よかった」

それだけで十分だった。
大袈裟な喜びはいらない。蒼を負担にしたくない。
でも、ここで俺が何も言わなかったら、蒼はまた“迷惑”に戻ってしまう。

だから、提案をする。
押しつけない形で。

「……今日も、もし不安なら。無理に帰らなくていい。数日、試してみる? ここで眠れるか。薬に頼らなくても眠れる日、増やせるか」

蒼の目が揺れた。
重たいって思うよな。普通じゃないって思うよな。
でも、それでも今の蒼には必要だと思った。

蒼はまた言った。

「……迷惑じゃ、ないの」

胸がちくっとする。
蒼が自分を“迷惑”に変換するたびに、俺はそれを引き剥がしたくなる。
でも引き剥がすのは力じゃなくて、蒼が選べる形で。

俺は蒼の手の近くに、自分の手を置いた。触れる寸前で止める。
合図を待つ。

「迷惑だったら、提案しない。俺さ、蒼が眠れないって聞いてから、ずっと気になってた。何もできないの、嫌だった」

蒼が小さく息を吐いて、ほんの少しだけ手を前に出した。
許可。
俺はその合図で、蒼の手に触れた。あたたかい。昨日より少し、あたたかい。

「……じゃあ、数日だけ」

「うん。数日でいい。蒼が決めていい」

俺はそれを何度でも言うつもりだった。
ラベルなんて、今はいらない。名前をつけたら壊れるものもある。蒼が怖がるなら、俺は待てる。
それより先に、蒼の夜を守りたい。

数日が一週間になる予感がした。
歯ブラシが増える未来が見えた。部屋着が一枚置かれる未来が見えた。冷蔵庫に蒼の好きなヨーグルトが並ぶ未来が見えた。
その未来を、俺は欲しいと思ってしまった。

でも欲しいのに、奪わない。
蒼が差し出した分だけ、受け取る。
それが今の俺のやり方だった。

夜になったら、俺はまた聞く。

「今日、近くにいていい?」
「触ってもいい?」
「手、つなぐ?」

蒼が小さくうなずくたびに、俺は自分の中の欲を静かに撫でて、眠りの方へ戻す。
蒼が眠れるなら、それでいい。
触れないで守る夜が、俺たちの始まりになるなら、それでいい。

蒼の呼吸が落ち着いていくのを感じながら、俺は静かに決めていた。
この人の夜を、俺が壊さない。
俺の優しさが重たいなら、重たいままでもいい。
重たいものを、蒼がちゃんと“支え”として受け取れる形にして、渡し続ける。

眠りの入り口が、蒼の手の中に戻るまで。

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