眠れない夜って、部屋の音がやけに大きくなる。
冷蔵庫の低い唸り。エアコンの送風が、ふいに止まる瞬間の沈黙。隣の部屋の水道の音。自分の呼吸の浅さ。
目を閉じても、眠りの入り口が見つからない。まぶたの裏だけが妙に明るくて、疲れてるはずの身体は布団に沈んでるのに、心だけが置いていかれたみたいに落ち着かない。
眠ろうとする。眠れない。焦る。焦った自分に苛立つ。苛立ちに胸が熱くなって、さらに眠れなくなる。
それを何日も繰り返して、ある夜、私は自分の中の何かが静かに折れたのを感じた。
翌日、精神科に行った。
待合室の白い椅子は、やけに硬く感じた。座ってるだけで泣きそうで、泣きそうな自分が嫌で、手を握って誤魔化した。こんなことで病院に来るなんて、って、どこかで自分を責めていた。
でも診察室の先生は淡々としていて、私の話を否定しない。
「眠れないのはつらいですね。まずは、眠れる日を増やしていきましょう」
それだけだった。責められないことが、逆に胸に刺さった。
処方された小さな錠剤は、軽い救命具みたいだった。持っているだけで、少しだけ安心する。でも同時に、これは自分一人じゃ抱えきれなくなった証拠でもあって、薬袋の紙の触感が妙に現実的で、指先が冷たくなった。
帰り道、コンビニの前で足が止まった。眩しい照明。人の出入り。揚げ物の匂い。世界は普通に回っているのに、自分だけが一歩遅れている気がして、ぼんやり立ち尽くしてしまう。
「蒼?」
呼ばれて振り向いた。
ネクタイを緩めたままの輝が、紙コップのコーヒーを片手に立っていた。仕事終わりの、いつもの柔らかい顔。
「お疲れ。……顔、死んでる」
「死んでない」
「いや、死んでるって。なんかあった?」
軽い言い方なのに、ちゃんと私の目を見てくる。その感じが、逆に逃げ道を塞ぐ。私は無意識に、手に持っていた薬袋を握りしめた。紙がくしゃっと鳴って、妙に恥ずかしい。
「……眠れなくてさ。病院行って、薬もらった」
言った瞬間、空気が少しだけ変わった。
驚いた顔をするんじゃなくて、輝は眉をきゅっと寄せて、ほんの少しだけ呼吸を深くした。何かを飲み込むみたいに、一回、ちゃんと息を通してから。
「そっか。……言ってくれてありがと」
それだけ。
大げさな同情も、説教もない。
なのに、その一言で胸が熱くなってしまって、私は慌てて視線を逸らした。
「別に。大したことじゃない」
「大したことだよ。眠れないの、きついもん」
言い切る声が、優しすぎて、逆にしんどい。優しさって、軽いふりして人の奥まで入ってくるから。私は笑うみたいな、ため息みたいな息を吐いた。
「……帰る」
「一緒に帰ろ。つーか、飯食べた?」
「食べてない」
「じゃ、うち寄って。なんか作る」
「え、迷惑じゃ」
「迷惑なら言う。言わないから、寄って」
その言い方がずるい。押しつけじゃないのに、断れない。
私は結局、うなずいてしまった。
輝の部屋は、いつ来ても余計なものが少ない。物がないっていうより、ちゃんと選ばれて置かれてる感じ。
ソファはグレーで、ラグは淡いベージュ。キッチンに吊られたマグカップも、同じ形で揃っている。部屋の角が尖っていない。生活の輪郭が、丸い。
卵雑炊を食べた。熱い湯気が喉を通って、身体の中の固いものが少し緩む。白湯を飲んで、薬袋をテーブルの端に置いたまま、しばらく動けなくなった。
輝は洗い物をしながら、背中越しに言った。
「今日、帰って寝れる?」
その言葉に、私は一瞬詰まった。
帰れるかどうかじゃない。帰っても、寝れない。
眠れない夜が怖い。部屋に戻って、また天井と向き合うのが怖い。夜が来るのが、怖い。
でもそんなことを口にしたら、重たい人間だと思われそうで、言えなかった。
私が黙っていると、輝は蛇口を止めて、ゆっくり振り返った。目が優しい。優しいのに、逃げ道はくれない。
「……蒼。無理してない?」
名前を呼ばれるだけで、胸の奥の固いところがほどけそうになる。私は唇を噛んだ。
「……寝れる日も、ある」
「そっか」
輝はそれ以上追及しなかった。代わりに、タオルで手を拭きながら少しだけ距離を詰めて、立ち止まった。
「今日さ、ここで寝ていく? もちろん、嫌ならいい。ソファでも布団でも、用意する」
私の中の何かが、静かに崩れた。
ありがたいって思う前に、こわいって思ってしまう。誰かに頼ることが。甘えることが。
あとで「重い」って切り捨てられる未来が、勝手に頭の中で動き出す。
でも輝の声には条件がなかった。付き合ってないのに、理由を求めない。私がどうしたいかを、ちゃんと尊重しようとしてる。
「……ソファでいい」
言うと、輝は少し困ったみたいに笑った。
「寒いよ。布団出す。俺はソファで寝るから」
「え、いいよ。私が帰れば」
「帰らなくていい。今日は、休んで」
命令じゃないのに強い。
私の心の中の頑固なところに、優しく触れて、動かしてしまう力がある。
それでも私は最後の抵抗みたいに聞いた。
「……ほんとに迷惑じゃないの?」
輝は少し笑って、首を横に振った。
「迷惑なら、こんな顔しない。見て」
わざとらしく口角を上げるでもなく、ただふわっと笑った。
光が差し込むみたいな笑い方。名前のとおりだと思った。
私はそれに負けて、うなずいてしまった。
布団はリビングの隅に敷かれた。余裕のあるサイズで、清潔なシーツの匂いがする。
輝は枕を二つ置いて、それから一歩下がった。
「ここまでで大丈夫?」
「……うん」
「じゃ、電気消すね。何かあったら起こして。無理しなくていい」
言葉が全部、柔らかい。柔らかいのに、ちゃんと私の心を支えている。
「輝は、ソファで寝るんでしょ」
私が言うと、輝は一瞬だけ迷ったみたいな顔をした。言うべきか言わないべきかを、ちゃんと測っている顔。
「……蒼が嫌じゃなければ、同じ布団でもいい?」
心臓が、どくんって鳴った。
距離が近すぎる。付き合ってないのに。
そう思うのに、嫌だとは思えない自分が、いちばんこわい。
輝は続けて言った。
「触らない。勝手に触らない。眠れないのって、一人だと余計きついから……ただ、人がいるってだけで安心することもある。そういう意味で」
最後まで、私の返事を待っている。決めるのは、私。
私は息を吸って、吐いた。
「……いいよ」
その瞬間、輝の目が少しだけ柔らかくなった。嬉しいって顔じゃない。安心したって顔。
「ありがとう。じゃ、入るね」
輝はちゃんと私の布団の端に座ってから、ゆっくり入ってきた。無駄に近づかない。体温がふわっと伝わる距離を守っている。
電気が消えて、部屋が暗くなる。
暗闇の中で、私はやっぱり目が冴えていた。呼吸が浅くて、身体の奥がざわざわしている。
薬を飲むべきか迷って、飲まないまま、時間だけが過ぎていく。薬袋はテーブルの端に置いたはずなのに、その存在だけが頭の中でやけに重い。
輝が小さく声を出した。
「……眠れそう?」
「……わかんない」
「そっか」
それだけで終わると思ったのに、輝は少しだけ間を置いて言った。
「手、つないでもいい?」
胸がきゅっと縮んだ。
いきなり抱きしめるんじゃなくて、ちゃんと許可を取る。私が怖がらないように、ちょうどいい大きさで近づいてくる。
「……うん」
返事をすると、輝の手がそっと私の手を探して触れた。指先が触れて、ゆっくり絡む。熱が伝わる。あたたかい。
変に汗ばんでない、落ち着いた熱。手のひらの温度が、私の中の警報を少しずつ下げていく。
それだけで、身体が少しだけ「大丈夫」って思い出す。
輝の呼吸が、隣で一定のリズムを刻んでいる。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
私の呼吸がそれに引っ張られて、少しずつ深くなる。胸の奥で固まっていたものが、ゆっくり溶けていく感覚。
眠れない夜って、戦いだった。眠ろうとして、眠れなくて、焦って、余計眠れなくなって、自分を責める。
でも今夜は、戦いじゃない。
ただ、輝の体温があって、手があって、呼吸があって。
私はこっそり、肩の力を抜いた。
しばらくして、輝がまた小さく聞いた。
「……もうちょい近く、いってもいい?」
心臓がまた鳴る。でも、さっきほど怖くない。
「……うん」
次の瞬間、輝の腕が私の背中の少し上あたりにそっと添えられた。抱きしめるっていうより、逃げないように囲うだけ。触れているのに、押しつけがない。
布団の中の冷たい空気が、そのぬくもりでほどけていく。
私は気づいた。眠れないのは、頭が冴えてるからだと思ってた。でも本当は、安心できてないからだったのかもしれない。
自分の部屋の静けさが、私を置き去りにするから。夜になると、世界から切り離される感じがするから。
隣に人がいるだけで、世界がちゃんと続いている感じがする。
輝が、眠りに落ちかけた声で言った。
「蒼、もし嫌になったら、すぐ言って。今のも、やっぱやめたいって思ったら……すぐ離れるから」
「……わかった」
私はそう答えながら、言葉の奥で思ってしまう。
嫌にならない。むしろ、離れたくない。
でも、それを口にするにはまだ早い。
私たちは付き合ってない。ラベルがない。曖昧な関係。私はその曖昧さに守られている部分もある。恋人になってしまったら、壊れるものもある気がして。
なのに、輝のぬくもりは、そんな理屈を溶かしてしまう。
私は目を閉じて、輝の呼吸に合わせた。ゆっくり、ゆっくり。
いつの間にか、意識が薄くなる。暗闇が怖くない。静けさが敵じゃない。
輝の体温が、私の背中をあたためている。
それだけで、眠りの入り口がちゃんとそこにある。
私は、そのまま落ちていった。
次に目を開けたとき、カーテンの隙間が薄い金色になっていた。
「……え」
時計を見る。朝。ちゃんと朝。途中で起きた記憶がない。夢の断片さえ、ほとんど残っていない。
久しぶりに、頭の中が静かだった。静けさが、ちゃんと味方になっている。
隣を見ると、輝がまだ寝ていた。寝顔が、思っていたより子どもっぽい。普段の柔らかい笑顔とは違って、何も装ってない顔。
私はそっと手を動かした。まだ、彼の手が私の手の近くにあった。握ってはいない。でも、離れてもいない。
胸が苦しくなる。嬉しいのに、怖い。
こんなふうに安心を知ってしまったら、元の夜に戻れなくなる。
私が身体を起こそうとすると、輝がうっすら目を開けた。
「……おはよ」
かすれた声。寝起きの低い声。反則。
私は喉の奥が熱くなるのを誤魔化して、軽く返した。
「おはよう」
「眠れた?」
私は少し迷って、それから小さくうなずいた。
「……眠れた」
その瞬間、輝の顔が心からほっとしたみたいにほどけた。
「よかった」
たったそれだけの言葉なのに、泣きそうになる。
誰かにとって、自分の眠りが大事なことになっている。それが嬉しくて、怖い。
輝は少しだけ身体を起こして、私を見た。昨日みたいに、ちゃんと確認する目。
「……今日も、もし不安なら。無理に帰らなくていい。数日、試してみる? ここで眠れるか。薬に頼らなくても眠れる日、増やせるか」
私は言葉を失った。
一緒に暮らす、なんて。重すぎる。付き合ってないのに。普通じゃない。都合がいいだけだ。
なのに、私の心はもう答えを知っている。
眠れる夜が欲しい。安心が欲しい。静けさに飲まれない夜が欲しい。
そして何より、輝のぬくもりが欲しい。
私は視線を落として、布団の端を握った。
「……迷惑じゃ、ないの」
また同じことを言ってしまう。情けない。
輝は苦笑して、私の手の甲の近くに、自分の手を置いた。触れる寸前で止める。最後の許可を待つみたいに。
「迷惑だったら、提案しない。俺さ、蒼が眠れないって聞いてから、ずっと気になってた。何もできないの、嫌だった」
その言葉が重たい。
優しさが重たい。でも、その重さが、私を支えてしまう。
私は小さく息を吐いて、ほんの少しだけ手を前に出した。
合図。ほんの小さな、許可。
その瞬間、輝の手が私の手に触れた。あたたかい。
「……じゃあ、数日だけ」
「うん。数日でいい。蒼が決めていい」
私は、うなずいた。
最初は数日だった。
次は一週間になった。気づいたら歯ブラシが増えて、部屋着が一枚置かれて、冷蔵庫に私の好きなヨーグルトが並ぶようになった。
それでも私たちは、まだ「恋人」って言葉を使わない。名乗らない。決めない。決めるのが怖い。
夜になると、輝は必ず聞く。
「今日、近くにいていい?」
「触ってもいい?」
「手、つなぐ?」
私はそのたびに小さくうなずいて、少しずつ自分の「安心」を許していった。
許すたびに、怖さがゼロになるわけじゃない。むしろ、知ってしまうから怖い。でも、知らないままの夜よりはずっといい。
眠れない夜が来ても、以前みたいに絶望しなくなった。
だって私には、帰る場所が二つになったから。
静けさに飲まれそうな私を、ぬくもりで包んでくれる場所がある。
優しさが重たくても、その重さが今の私には必要だった。ふわふわした救いじゃなくて、ちゃんと手で触れられる救いが。
薬袋はまだ、私のカバンの中にある。
でもそれより先に、輝の体温が私の夜を救った。
嬉しくて、怖くて、それでも救いで。
私は布団の中で小さく息を吸う。隣にいる輝の呼吸が、私の呼吸を落ち着かせてくれる。
眠りの入り口は、もう探さなくてもそこにある。
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